想いは時に専門性を超える
私が学生の頃は
<看護の看という字は 目の上に手があって、
これは目の上に手を当てて、よく見るの意味があるのだ>
と、よく教えられました。
そして、「看護は観察から始まる」とも聞きましたし、
当時は専門の雑誌でも、よく取り上げられていたテーマでした。
5感、時には直観も総動員して、患者さんに関する情報を収集し、
(観察はその一部)
アセスメント、判断、看護計画の立案、実行、評価
この間、常にフィードバックを繰り返すというのが
看護のモデルでした。
(記憶がおぼろげで、申し訳ないのですが、
私が学生の頃は薄井坦子先生という、当時の日本の看護の世界では、
最も高名な先生が「直観的看護」というようなことを
雑誌か何かで語られていたと記憶しています。)
ですから、当然、<観察>の部分は毎日、相当鍛えられます。
人の命に関わることですので・・・。
そういう、私たちでもかなわなかったのは<お母さんの目>でした。
下垂体腫瘍の術後で、
尿崩症(おしっこがどんどん出てしまう)の状態になったために
抗利尿ホルモン「バソプレシン」と同じような働きを持つ、
デスモプレシンを点鼻していた患者さんがいました。
彼女は成人を迎えたばかりで、夜間はお母さんがついておられました。
彼女は日に数度、高い熱を出すのですが、
ほぼ、夜11時をすぎたころから、熱が出始め、
申し送りを始める頃には高熱になるパターンが度々、見られました。
申し送りの前には必ず、氷枕やアイスノンを準備して訪室するのですが、
お母さんが必ず、「今日は大丈夫そうよ」とか、
すでにアイスノンを用意していたりもしました。
熱の上がりが無いときに、アイスノンなどを持ち帰ろうとすると
「きっと、急に上がってくると思うから」とキープされることもありました。
そして、それは、少なくとも私が準夜勤務の時には100%、
お母さんのいうとおりでしたし、
同僚たちも、それは同じだったようです。
20代から50代までのいろいろなキャリアを持つナースが束になっても、
そのお母さんには勝てませんでした。
注意深く、丹念に観察しているつもりなのに、お母さんには勝てない。
そんな気持ちが私たち全員にあったと思います。
専門家だと思って、おごってはいけない。
愛情とか、想いとか、全く科学的でもないそうしたものが、
時に鍛え抜かれた専門性を超えることがある。
愛情や想いがすべて正しい結果を導くというのではありませんが、
素人だからとか、科学的でないからという理由で、
そうしたものすべてを退ける理由は全くありません。
あのお母さんを思い出すたびに、
自分は、あのお母さんのように私のこどもたちを想っているだろうかと
自分を省みたり、胸が熱くなったりします。